西洋画によくある
神vs悪魔、、、等々、なかでもとりわけ、
悪魔が描かれている絵画には少年は
心躍らせるものだ。教科書に掲載されていた
ラファエロの絵などは今でも鮮明に記憶に残っている。言うまでも無いことだが、数十年前の我々のこの感覚が、ドルアーガの塔など数ある
サブカルチャーの作品に昇華しているわけだ。
覚えているものもあるが、それ以上に忘れたものが多い。特に
ギリシャ神話などは何冊も読んだ記憶があるが、記憶に残っているのはその断片でしかない。ともあれ、いわゆる
ルネサンス時代の龍などが描かれた絵画の背景に関しては、
不思議とスルーしている自分に気づく。そういうわけで
「龍と闘う聖ゲオルギウス」について調べてみた。
ある村に
龍が住み着き、村人を困らせていた。生贄を奉げることで難を逃れていたが、ある日、
王妃を生贄にささげることになった。偶然通りかかった
「ゲオルギオス」が、
「よし、私が助けてあげましょう」
と出掛けていった。首尾よく
龍を倒しかつ捕獲した
「ゲオルギオス」は、その
龍に首輪をつけて村へ連れて戻り、
「キリスト教徒になると約束しなさい。そうしたら、この龍を殺してあげましょう」ってなんでやねん
いわゆるアーキタイプなのだろう。素戔嗚尊の
八岐大蛇の話と酷似している、、、が、どうにも
理解できないのが最後の一文。この商売じみた感覚が、我々に
キリスト教不審を抱かせる一因に違いない。しかし、よくよく考えてみると、素戔嗚尊が引き換えにしたのは
櫛名田比売(くしなだひめ)という嫁さん。対して
「ゲオルギオス」は、
信仰という彼自身にとっては
一文にもならないもの。
日本人が宣伝・広報ベタなのは、海外へ宗教の布教の経験がないからだ!
とは、まことしやかに囁かれることだが、こういうところにその一端が現れているのかも知れない。同時に
「受け入れないなら死んでね!」という、このヤクザまがいの駆け引きが、
神の名のもとに正当化できる感性!この感性がない限り、日本は永遠に
局地戦には勝利しても
戦略的には勝利することはできないのではないか?とさえと思う。しかし、はたして
その感性を得た日本を
日本と呼ぶことが出来るのか、
甚だ疑問ではある。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を
2019年10月09日