目に見えない力


子供は、オバケや幽霊など怖いものがすきだ。しかし、大人になるにつれ、こういうものに興味を失っていくものらしい。もちろん心配したことが、心配したように起こらなかった経験が積み重なってのことからだと思われるが、だからといって、それが今後も起こらないという保証はどこにもない、、、それどころか、誰の未来にも必ず訪れることである。即ち、死だ

むろん、大人になってからも子供の時と同じように感じていては、日常生活もままならなくなるわけだからそれはそれでよいのだと思う。しかし、それらを軽く侮り、少しも省みることがなければ、なにかの拍子に妙な新興宗教にはまるなど、面倒なことに巻き込まれるに違いない。この種の愚鈍さは、武道的には必敗への道、、、であろうからである。

そういう意味での敏感さという部分だけを取り出せば、武道などは大人より子供の方が向いているんじゃないか?と思う。しかし、子供は雑念が多く、また、そういう感覚をコントロールする術を知らない。要するに「目に見えないものを見る力」に乏しい。

古今東西、なにかをコントロールするためには、まずその対象を把握する必要がある。その対象がわからない以上、そのなにかをコントロールできるはずがない。そして、この対象を把握するということは、つまるところ、それを言語化できるか否かにつきる。つまり、霊感のない僕にとっての「目に見えないものを見る力」とは「文学的感性の所産」に他ならない。



壬生にある寂れた商店街。行きかう自転車。道端で携帯ゲームをしながら周囲の危険も顧みずにうろちょろする幼稚園児。その祖父であろう老人が手を添えて、自転車事故を避けるようにその子を誘導している、、、。



もちろん、端から見ればどうということのないこういう力(老人の手)も、幼稚園児であり、また、携帯ゲームに熱中する彼には、全然見えていない。要するに対象を把握していない認識していない。つまりは言語化できてない文学的感性からすれば、それはやはり、彼にとって「目に見えない力」に違いない。そして、僕たちはいつも、そういうものに守られて生きている

年を重ねるにつれ、この「目に見えない力」見えるようになってくる。その正体が、であったり友人であったり。はたまた、法律であったり国家であったり。オバケや幽霊などに興味を失うのも、それらがただ、これら有形無形の「目に見えない力」の比喩にすぎない、、、と気付くからであろう。

さりとて、死は誰にでも訪れる「比喩!」などと余裕でいられるのも、結局のところ、未だ40代であり、死の実感に乏しいからに他ならない。いつか死を目前にした刹那、それが「比喩にすぎない」ものなのか「恐るべき実体」として訪れるものなのか、、、できるだけ先送りしたい問題ではあるにゃ。


雪山

2019年09月11日

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